本と酒があれば、人生何とかやっていける

読んだ本の感想や気付きを中心に、雑感をつらつらと綴っていきます

〈本〉『黒い賠償 賠償総額9兆円の渦中で逮捕された男』

【真に受けても良いと判断した】

 

二〇一一年四月二八日に福島原子力補償相談室が開設され、岩崎は賠償係となった。福島原子力補償相談室とは、原発事故の被害に関する書類の受付や相談の窓口である。

 

黒い賠償

黒い賠償

 

 

世間の目とクソ野郎

本書は、賠償係として被害者の窓口となり補償相談の対応を経て、賠償詐欺の捜査官に転身して活躍した後に、詐欺容疑の被疑者との関係を疑われて逮捕、そして東京電力に解雇された男を追い掛けたルポルタージュだ。

 

この本を読んで考えさせられたことが二つある。一つは世間の目を持っておくことの大切さ(後述するが世間の目が正しいということではない)、もう一つはクソ野郎は誰なのかということだ。

 

東電には恩返しがしたいけど、事務屋なので原発には携わっていない。なので、加害者としての申し訳なさは皆無に等しかった。だから『被災地のため』ではなく、会社のために志願した。普段は偉そうにしている巨大組織が、本当に慌てふためいているのが分かったから。

 

落とし穴が待っている

岩崎の述懐だが、これに既視感を持った事件がある。岩崎の心情に腹を立てることなく受け入れることができたのは当事者ではないことに加えて、あぁ同じ論理なんだなと思うことができたからだ。既視感を持ったのは、某洋菓子メーカーが賞味期限切れの原料を使用して問題になった事件。彼らの中にあるのも被害者意識だけだった。

 

世界との距離感をはかる世間の目を持ち合わせておかないと、強烈なバッシングを受けて袋叩きにされてしまうことがあるので注意が必要だ。内側の理論だけで生きていると、想定外の落とし穴が待っている。

 

この時期、東電が悪いという風潮が最悪の域にまで達していた。社員たちは加害者という意識など皆無に等しい。むしろ被害者意識の方が強かった。だが、世間は違ったのだ。

 

世間の目が正しいということではない。世間には世間の理論があり、それは決して一定ではないので、世の動きには目を凝らしておかなければならないということだ。深い落とし穴に落ちてしまわないように。

 

クソ野郎か、それとも

この本を読んで思った二つ目は、みんなクソ野郎だということだ。果たして日本人は立派な国民性を持っているのだろうか。ここで描写される多くの人々、東電の人間、賠償のコンサルタント会社(デロイトトーマツ)、某県知事、そしてワラワラと賠償目当てに群がる詐欺のプロたち。みんながみんな、クソ野郎に見える。

 

私は東電はクソだと思う。勤めている友人もおり、彼には申し訳ないけれども、東電はクソ野郎だと思う。これまではそうとだけ思っていた。しかしながら、本書を読むと、クソ野郎は東電だけではなかったことが透けて見える。原発事故に掛かる補償問題に群がるクソ野郎たちに反吐が出る。

 

私も針のむしろの中で働かなければならなくなった経験がある。身から出た錆だったが、しんどかった。マスクで表情を隠さないと仕事ができなかった。そのような渦中にいるからこそ見えてくるものがある。それでも寄り添ってくれる人と、クソ野郎だ。

 

クソ野郎か、それとも寄り添ってくれる人間だったのか。動機はさて置き、岩崎は後者の側にいた人間だったのではないかと思う。

 

本書の雑感

ここからは予断。

本書では原発事故の舞台裏を見せられることになった。テレビのニュースや新聞から得る情報は、自分が目の前にした「事実」でない限り、何かしらのフィルターを通した"その主体"にとっての「真実」を見せられることになる。真実の中からどれだけ事実をすくい取ることができるか。情報が氾濫する世の中ではできることに限りがあるので(全ての裏を一つ一つ取っていく時間はないので)、事実を見極めるのはたやすいことではない。

 

本に関しても同じことが言えるだろう。しかしながら、ニュースや新聞よりは「フィルター」の加減をはかりやすい。出所つまり書き手が特定できるからだ。信頼できると判断する書き手を持っておくことは大切だと思う。その書き手の考えに偏りがちになるリスクはあるものの、氾濫する情報に独自のフィルターを掛ける手段になるからだ。

 

信頼できる書き手とその加減をはかりたい書き手を掛け算して、信頼度合いをはかることもある。信頼できると判断している書き手がその書き手を評価していれば、安心して手に取ると判断する。しかしながら、本書の著者である高木瑞穂は上手いこと判断ができなかった。どこまで信用できるだろうか。

 

あくまで私の判断基準だが、ノンフィクションやルポルタージュであれば、門田隆将や清水潔は信頼できると判断している掛け算ではかるものさしだ。しかしながら、今回は上手く機能しなかった。本を読むのにそこまで考えるのか?と思われるかもしれないが、重いテーマであればあるほど慎重になる。真に受けて良いものだろうかと。

 

こうなったら自分で判断するしかない。私は真に受けても良いと判断した。

久し振りに読み返してみた本

【これからも版を重ねていってほしい】

妖怪並み

本を読んでいると、ちょいちょいその姿を現わす本がある。中野千枝『タテ社会の人間関係』だ。先日も『日本の天井』を読んで「また出た!」と思わされた。

 

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私が『タテ社会の人間関係』に初めて出逢ったのは、海外出張前の成田空港内の書店だったと記憶している(羽田空港だったか?)。しかも、英訳版。このような表紙でとても目を引いたことを覚えている。

 

タテ社会の人間関係 - Japanese Society

タテ社会の人間関係 - Japanese Society

 

 

それから原著を読んだのは、今から数えると随分前のことだと思う。何に驚いたかと言えば、古書店で買い求めた手元にあるものが、2017年で第128刷という版の重ね振りだ。妖怪並みの重版出来ではないか。

 

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

 
日本の社会構造をはかるモノサシ

今回、『日本の天井』でこの本を再び思い出し、せっかくなので読み返してみた。いやはや、なかなかの気付きがあるではないか。さすが妖怪並みの古典である。

著者の中野千枝が『タテ社会の人間関係』を著した主旨は以下の通りだ。

 

日本社会の構造を最も適切にはかりうるモノサシ(和服における「鯨尺」)を提出することにある。

 
副題に「単一社会の論理」とある通り、日本のお国柄にだけ注目しているのではなく、日本の社会構造をはかるモノサシとしての「単一社会の理論」について言及している。

興味がある方は読んでみてもらいたいが、本書で展開されるリーダー論は笑うに笑えない一方で、頷かされるところもある。

 

ベストセラーには並べられない?

これとは別に、このような本を見つけて手を出してみた。

 

ベストセラー全史 【現代篇】 (筑摩選書)

ベストセラー全史 【現代篇】 (筑摩選書)

 


萌えるタイトルではないか。この本から引用れば、ベストセラーの定義は「最もよく売れた商品(本)」ということになるので、中野千枝『タテ社会の人間関係』が含まれていてもおかしくないし、逆になければおかしなことになる。

ところが、なかった。念のため読み返してみたのだが、なかった。漏れているのかもしれないが、私のフィルターには引っ掛からなかった(あったとしても、その程度の扱い)。

まぁ、ここで挙げられている本を見ればそれも理解できる。瞬間最大風速的に売れればその年のベストセラーに並べられることになるが、じわじわと版を重ねている本はこのような場に登場することはないのだ。

 

今回の雑感

が、『ベストセラー全史【現代篇】』の巻末にある戦後の総合ベストセラーリストを見た限り、30位にも入っていない。外山滋比古『思考の整理学』もなかった。ちなみに1位は黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』で580.95万部、30位は田村裕の『ホームレス中学生』で225万部だ(なお、調査は5年前)。

そうか、版を重ねているとは言えども、一度の重版で刷る冊数が少ないということなのだろう。が、『タテ社会の人間関係』のような妖怪本には、これからも版を重ねていってほしいものだ。

〈本〉『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』

【差別と捉えるか、区別と考えるか】

開拓者たちの物語

ヒラリー・クリントンドナルド・トランプに敗北した時、しきりと繰り返された言葉があった。ガラスの天井だ。

 

日本にはガラスの、いや鉄か鉛でできていた天井があった。出ること、伸びること、知ることを封じられた女性たちがいた。その状況に我慢せず、各界の天井を打ち破り、道をつくってきた「第一号」がいる。

 

それぞれの世界で女性第一号となり、道を拓いてきた開拓者たちの物語だ。

 

日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち

日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち

 

 

この本に登場している第一号たちは、そもそも「女性第一号」と称されることを嫌う傾向にある。それを強く感じたのが、結びに登場する落語家・三遊亭歌る多だ。落語の世界は男社会であることが想像に難くない。そのような中、様々な理由で冠に「女」が付けられることを徹底的に疎んだ三遊亭歌る多。強い意思を表明するめにあることを二回しているが、その思い入れには頭が下がる。

 

残念至極

折角なので、登場する七人の女性を以下に紹介する。

 

高島屋取締役・石原一子
囲碁棋士・杉内籌子
労働省婦人局長・赤松良子
登山家・田部井淳子
漫画家・池田理代子
アナウンサー・山根基世
落語家・三遊亭歌る多

 

誠に残念なことがある。あとがきに書かれている女性初の東大教授であり社会人類学者の中野千枝だ。原稿の確認を前提に掲載の許可を得ていたものの、体調を崩したので原稿に目を通してもらうことが叶わず掲載が見送られてしまったのだという。

 

中野千枝といえば、あちらこちらで顔を出す『タテ社会の人間関係』だ。日本社会を知るための古典として版を重ねている。古典を通り越してもはや妖怪の域に達している一冊だ。中野千枝の物語、読みたかった。残念至極。

 

なんだかんだ言いながらも

残念なことはあったものの、先に挙げた七人の女性たちそれぞれの話は読んで小説のごとしだ。典型的な女性差別や女性蔑視も見られる一方で、中には「女性だから」という考えを持たずに彼女たちを支え続けた男性たちの姿もある。

 

その一方で女性そのものから恨みを買い、妬まれる場面も出てくることが興味深い。男女平等とは言いながらも、女性だから優遇されている場面があることを忘れてはいけない。アナウンサー・山根基世は、男性ばかりに背負わせてきた地方勤務を引き受けて組織責任を果たすべきと改革を断行する。

 

確かに相当な反発がありました。東京だけにいたいと考える一部の女性たちからは、だいぶ恨まれたようです。私の藁人形を作った人もいたと思う(笑)

 

男性だから思い、感じることもある。確かに女性差別や女性蔑視はあると思う。そうある一方で、女性はなんだかんだ言いながらも優遇されているのだ。そこにビシッと線を引いた山根基世は、男性である私から見ると格好良く映る。

 

男女不平等

当の女性自身が"女性だから"ということを意識してしまっていることにも問題はある.と指摘しているのが、囲碁棋士・杉内籌子だ。

 

一番の問題は、女性自身が目標を低く設定してしまっていることにあると思います。男子のほうが名人になりたい、本因坊になりたいと思って、入段後も努力している。 

 

このような冷静な視点は、男性から見て好ましいものがある。男女平等、男女平等と謳いながらも、山根基世の例で挙げたような、いわゆる逆の今での男女不平等というのは何気にあるものなのだ。

 

異なる言語を操る、異なる国の住人

最も読み応えがあったのは、高島屋取締役・石原一子だ。男性社会を理解したいと思い、理解したつもりでいたものの思い叶わずという話。そのような男性ばかりではないとは思いながらも、否定はできないし頷けるものもある。本当にこのような男性がいるから驚かされる。男性たちの醜い世界。

 

男たちがどれだけ出世というものにこだわり、血道を上げる生き物か把握しきれていなかった。男は女が考える以上に、出世するためには手段を選ばない。私の想像を超えていたのよね。足の引っ張り合いですよ。自分も渦中に身を置くようになって、男社会って醜いなって、つくづく思った。

 

そう、女性と男性は異なる言語を操る、異なる国の住人なのだ。そんな石原一子が翻訳して、早くこの本に出逢っていればここまでの苦労をせずに済んだのにと思ったのがこの一冊だ。これは読んでみたい。

 

『男のように考え レディのようにふるまい 犬のごとく働け』(デレク・A・ニュートン

 

本書の雑感

男女不平等はある、現実にある。これは、一般的に捉えられている言葉通りの意味(女性が差別されている)と、逆の意味がある(女性が優遇されている)。これは日本に限ったことではないし、国によっては日本より顕著な例もあるだろう。

 

そのような男女不平等社会で生きていく上で、知っておくべきこと意識しておくべきことがある。あとがきを読みながら、このブログで初めて書いたことを思い出した。上野千鶴子の祝辞に関するものだ。

 

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私は思う。男女差別はある。男性だって、見方によっては差別されているのだ。しかしながら、差別を差別と捉えて文句を言うのか、それとも異なる言語を操る生き物として「区別」されていると考えるのか。それだけで随分と見える景色が変わってくるはずだ。

 

差別と考えるか。それとも区別と考えるか。どちらが正しいというわけではなく、目の前で起きていることを解釈するのはその人間次第ということだ。自分を変えることは容易でも、他人を変えることは難しいのだから。

〈本〉『フードバンク 世界と日本の困窮者支援と食品ロス対策』

【そもそもの議論が置き去りにされていないか?】

まず出だしで引っ掛かった

1967年にアメリカのアリゾナ州で誕生したフードバンク。世界初のフードバンク「セント・メアリーズ・フードバンク」は、1975年に政府から補助金を受けてアメリカ全土にフードバンクを普及する活動を始める。日本は大きく出遅れること2000年にフードバンクが誕生して、2017年1月時点で全国に77団体ある。フードバンク、一度は聞いたことがある言葉だろう。本書は丸ごとフードバンクを取り扱った一冊だ。

 

フードバンク――世界と日本の困窮者支援と食品ロス対策

フードバンク――世界と日本の困窮者支援と食品ロス対策

 

 

日本でのフードバンクは農林水産省が所管しており、同省により「食品企業の製造工程で発生する規格外品などを引き取り、福祉施設等へ無料で提供する『フードバンク』と呼ばれる団体・活動」と定義されている。いわゆる食品ロスを無償で提供する活動だが、まずは私が認識していた「食品ロス」とは定義がずれていた。

 

製造工程で発生する規格外品というよりも、食品の流通過程で発生する(具体的に言えば量販店やコンビニで発生する)、食べられるのに廃棄される食品、これが食品ロスだと考えていたからだ。いきなり出だしで引っ掛かることになった。国の定義(国の考え)と草の根で行われている実際の活動にずれが生じるのは他でもあることだ。

 

言葉の定義から学びになる

私は食品を扱う仕事をしているので、直球のタイトルに興味を惹かれて本書を読んでみることにした。フードバンクの定義付けに出てくる食品ロスの解釈で冒頭から引っ掛かることになったが、この丸ごとフードバンクを取り上げた本は存外に読ませるものだった。

 

多くの識者からの寄稿をまとめたものなのでテーマにより興味を惹かれるものとそうでないものはあったが、特に言葉の定義や日本の現状が学びとなった。例えば、フード・セキュリティやフード・デザートと聞いてどのような意味合いをイメージするだろうか。

 

フード・セキュリティは食料安全保障と訳され、主に国単位での食料調達・安定確保を指している。最終的には個人レベルでの食料確保という話になってくるわけだが、面白い議論があった。そもそも、フード・セキュリティのために実現すべきなのはフードバンクによる食料の供給ではなく、十分な所得保障ではないかというものだ。フードバンクが先行した背景には、フードバンクが生まれたアメリカにおける政治がらみの事情があるという裏話が興味深かった。

 

もうひとつのフード・デザート。こちらの方が聞き慣れない言葉だった。たとえ十分な所得を得ていても、そもそも食品が売られていない、もしくは適切な価格で手に入れることができないというものだ。食料が砂漠状態という言葉の発想が面白い。

 

違うのではないか

所得再配分機能の低下、社会のセーフティネットの弱体化、これらを表すひとつの形がフードバンクという議論も目に留まった。先にあげた、そもそも十分な所得保障をするべきという議論に通じるものがある。つまり、所得再分配セーフティネットの問題を棚上げにしたままフードバンクを押し進めるだけでは、対症療法になりかねないということだ。このような笑うに笑えない問題もある。

 

おむつとミルクは要望が多いが、なかなか寄付されないため、購入して送った

 

フードバンク山梨という団体の声だが、これは違うのではないか。フードバンクの領分から大きくはみ出しているように思えてならない。このような対応をせざるを得ない実態を考えると、そもそもの議論(所得再分配セーフティネット)が置き去りにされているという見方には大きく頷けるものがある。

 

本書の雑感

本書を読んで、フードバンクの世界で日本は出遅れている様子が見て取れた。しかしながは、別に世界標準に合わせる必要はない。日本には日本の事情があり、それに合わせたやり方があるわけなので、世界に追い付け追い越せと考える必要などまったくない。それよりも、そもそものところ(所得再分配セーフティネット)を置き去りにせず、もっと力を入れるべきなのだと感じた。

 

つまるところ、フードバンクはアピールしやすいテーマであり、そもそもの議論よりは触れやすいところなので、一生懸命に旗を振っているようにも思えてしまった。それはあまりにも穿った見方だろうか?

台風がぶっ飛ばしたもの

【いつかなりたい、訪ねてみたい】

おのれ、台風め

久し振りに(本当に久し振りに)幹事も務める読書会に参加するはずだったのに、台風が移動手段をことごとく破壊して、読書会をぶっ飛ばしてしまった... おのれ、台風め。

 

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語

 

 

『OODA LOOP』を紹介しようと思っていたのだが、ぎりぎりでこちらの本との出逢いがあり考え直した。よし、今回はこいつにしよう。久し振りの読書会で紹介するならこっちの方がふさわしい。と意気込んでいたのに、台風のせいで... おのれ、台風め。

 

本の行商人

台風にぶっ飛ばされたので不発に終わったのだが、次回参加する際には是非紹介したいと思っている。

 

イタリア北部にある山深い村、モンテレッジォ。美しい自然に囲まれているという以外にこれといった特長がない、世の中から忘れ去られてしまったような村。

 

村にいては食い扶持がないので出稼ぎに出る男たち。ところが、景気が悪くなるとそれすら叶わなくなる。モンテレッジォには何もない。頼れるのは己の腕力のみ。さて、どうする。何もないから... なんと本を売り歩くようになった。そう、本の行商人だ。

 

貧しかったおかげで、先人たちは村を出て国境をも越えていった。命を懸けた行商が、勇気と本とイタリアの文化を広める結果へと繋がっていったのです。

 

本が庶民に広がっていく

本好きならば分かるはず。本好きには堪らない。本好きを刺激する言葉、言葉、言葉。著者が実際に足を運んで目で見て心で感じた情景描写が堪らなく、本好きの心を刺激する。

 

イタリア全土に本が広がっていく当時の背景が興味深い。ナポレオンの勢力圏で工業化が進み、暮らしにゆとりが出始めると本の購買層が広がっていく。とはいえ、富裕層以外にとってはまだ手の届かない高嶺の花だ。そこで本の行商人たちの出番になる。

 

村人たちは底辺の行商人だった。青天井で売る。町中の書店で売る本とは違っていた。価格も、格も、読者も。

 

当時の出版社はまだ小規模で在庫を抱える余裕はない。モンテレッジォの行商人たちは、彼らから売れ残りや訳ありの本を集めて、売りに出たのだ。彼らの腕力と脚力で。こうして本が庶民に広がっていく。

 

スーパー行商人

行商人たちが運んでくる本を心待ちにしていた人々は、これまで読書を嗜んでいた階層とは別の人種。高価な本や難解な本ではない、手に届く価格で冒険や恋愛など気軽に読めるものが歓迎された。それだけではない。

 

各地で本を売り歩くモンテレッジォの行商人の臨場感あふれる話に夢中になる。行商人が運んでくるものは本だけではなかった。彼らの体験とともに本を運んでくるのだ。そう、彼らは単なる行商人を超えた、本のスーパー行商人なのだ。

 

青天井で本売りを重ねるうちに、行商人たちは庶民の好奇心と懐事情に精通した。客一人ひとりに合った本を見繕って届けるようになっていく。

 

今回の雑感

この本で得た感動を、是非読書会の場で共有したかった。しつこいようだが、おのれ、台風め。やってくれたな...

 

自分たちの強みは、毛細血管のようにイタリアの隅々まで本を届けに行く胆力と脚力である。本は、世の中の酸素だ。皆で手分けして、漏れなく本を売り歩こう。

 

あぁ、私はこのような本のスーパー行商人になりたい。そして、いつかモンテレッジォを訪ねてみたい。

寂しいけどこれ現実なのよね

【腹に落ちずとも得られるものはある】

腹に落ちない

しばしば味わいたくはないものの、生きていれば腹に落ちないこともある。それにしてもこの見事な腹に落ちない感覚をどう捉えるべきだろうか。貴重なものだと考えるべきなのだほう。自分が生きている現実だけが全てではないのだから。

 

ティール組織』を読んだ時と似たような読後感を味わうことになった。

 

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本書の内容がそのまますぐに適用できる日本企業や職場は多くはないでしょう。アメリカ固有の労働慣行を前提に書かれているように感じる箇所もあります。

 

監訳者による少し長めのまえがきより。もちろん、邦訳して日本に紹介しているわけなので、それでも・・・と続くわけなのだが、この本に書かれていることは、総じて腹に落ちるものではなかった。

 

ALLIANCE アライアンス―――人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用

ALLIANCE アライアンス―――人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用

 

 

ファンタジー

企業と個人とが、お互いに時間と労力とを投資しようと思えるような働き方のモデルを示している。どこか別の惑星で起きていることのように感じられる。

 

綺麗事に聞こえてしまうのは、どう考えてもそれはパワハラですよね!?やりたいことばかりやらないでやるべきことをやってくださいよ!!という状態が横行している現実と向き合っているからなのだろうか。

 

ティール組織』を読んだ時は「ファンタジー」という表現を使ったが、まさにそれ。会社を辞める時の対話がもっと建設的なものになったら良い。たった数年で転職していったとしても会社と個人が終身信頼(終身雇用ではなく)を築けたら良い。

 

何を言っているんですか??と思う一方で、そのように感じてしまう自分がもの悲しく感じられる。自分にあるのはある種の諦めであり、じゃあ俺が現実を変えてやるよ!!という胆力があるわけでもない。悲しいけどこれ現実なのよね、なのだ。

 

ほとんどの会社には文章の形で表現された価値観がある。大半は「高品質を目指して全力を尽くします」といった無害な常套句の羅列であり、知性への侮辱といっていい。

 

マスターベーション

このようなところで「まさに!」と手を打ってしまうのがさらに悲しい。私のような感覚に至るまではいかずとも、会社のホームページに堂々と記載されているビジョンやミッションに「・・・」となってしまう人は少なからずいるのではないだろうか。

 

これ以外にも、心から社員のことを思って行っている施策というよりも、これは会社のマスターベーションだなと感じてしまうことが散見される。それを会社説明会などで堂々と提示して、わが社は社員を「人財」と考えています!などとアピールしている様子がありありと浮かんでくる。

 

これは会社のマスターベーションではないだろうか。

 

今回の雑感

悲しいけどこれ現実なのよね。このような読書は非常にもの悲しい。これだけで終わってはあまりにも寂しい。

 

幸い参考になるところもあった。リンクトインという会社が採用している、「大文字の変革(Transportation)」と「小文字の変革(transformation)」だ。昇進だ昇給だという大文字の変革ではなく、武器になる経験を積んだり新しい知識や知恵を身に付けるのが小文字の変革と紹介されていた。

 

これには腹落ちがあった。立場上、昇進だ昇格だというところに手を突っ込んでいけないので、それならば小文字の変革で部下たちの後押しをしていこう。改めてそう思わされる読書になった。腹に落ちずとも得られることはあるものだ。

〈本〉『決断の法則 人はどのようにして意思決定するのか?』

【ブーメランのように戻ってきた】

まさにODA

『OODA LOOP』で紹介されていた一冊。

 

 

「人は現場でいかにして自分の経験を生かし、意思決定を行うのか」というテーマに関する研究をまとめたもの。著者は人間の行動能力に注目して、従来の理論で謳われている論理的思考、確率に基づいた分析、統計的手法よりも、現場で必要となるのは直観、メンタルシミュレーション、比喩力(比較力)、ストーリー形成などの能力だとしている。

 

この、状況をすばやく評価する能力、頭の中で行動の結果をイメージする能力、過去の記憶を引き出して現状との類似点を発見する能力、将来に役立つように過去の経験を整理統合する能力に関する研究をまとめたものが、この『決断の法則』だ。

 

冒頭にあげた「OODA LOOP」は意思決定の手法であり、Observe、Orient、Decide、Act(観察、情勢判断、意思決定、行動)の頭文字をとってOODAループ。スピードを重視するので、意思決定のOrientをすっ飛ばして行動に移る(つまり、OOA)が理想としている。本書はまさにODAだ。

 

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専門家に、なぜそのように優秀なのかと尋ねても、一般的な答えが返ってくるだけで、発見は少ない。しかし、専門家に、自分のスキルが役立った重大な事例、すなわち非日常的な出来事について尋ねることができれば、彼らの展望、すなわち世界の見方を多少なりとも知ることができるだろう。

 

経験>論理主義

本書は経験に焦点を当てている。現場における意思決定をする上で重要なのが経験、いかに経験を活用するかであり、専門的なトレーニングを積むことでは経験の積み重ねに取って代えることはできないとしている。関連して印象に残ったことがある。

 

極端な論理主義は一種の精神障害である。論理主義の虜になった人は、意思決定や問題解決処理を、基本的に論理だけで解決しようとする。

 

過度の論理主義は色素性網膜炎に似ている。思考するとき、常に唯一つの能力(論理的な思考)しか使おうとしないからだ。

 

なかなか強烈な表現だが、論理主義に偏り過ぎることに警告を述べている。論理的な分析には長所と短所がある。ふさわしくない状況で用いられる論理主義は破綻を招く。もちろん論理主義を否定しているわけではなく、それだけでは駄目だということだ。

 

本書の雑感

この能力を形成するのは、演繹的論理や確率論を使用せずに行動を引き起こす力である。

 

この能力とは、現場における意思決定の能力である。このくだりなどは「OODA LOOP」に通じるものがあり非常に興味深い。が、本として馴染めるのは『OODA LOOP』の方だったので、やはりこの本は手元に置いておかなければいけないと感じた。というわけで早速注文した。来週は久し振りの読書会なので『OODA LOOP』を紹介しよう。しっかり読み込んでおかなければ。