上野千鶴子の東京大学学部入学式の祝辞を読んで感じたこと
【結論を先に持ってくれば良かったのではないか】
あなたならどう感じる?
難関大学の晴れがましい入学式の場で、いきなり水を掛けられるような祝辞を浴びたらどんな気分になるだろうか?
話題になった上野千鶴子の東京大学学部入学式の祝辞を何回も読み直して想像してみた。多少の事前情報を持ってどれどれと腰を据えて読む立場と、苦しい(人が大半であろう)受験生活を乗り切って手に入れた難関大学への入学切符を握り締めながら聴く立場とは当然に異なるだろう。
まだ読んでいない人は、一度目を通してみてから読み進めてもらえるとありがたい。
私ならこう感じる
後者の立場であることを想像すると、男性である私としてはやや苦虫を噛み潰したような顔で聴くことになるのではないかという結論に至った。本来は自分よりも優秀な女性が合格するはずだったのに、どうやら大人の事情とやらで合格させてもらえたようだ...という感想を持つのだろうと想像した。
しかしながら、後半はとても良いことを言っているので非常にもったいないと思った。話の組み立てを変えるだけで、聴く側の受け止め方も少なからず変わるはずである。まずは結論を持ってくれば良かったのではないか。性差別も含めて、社会には努力が公正に報われないという一面がある。今そこに座っていられるのは、自身の努力だけではない要素が関わっている。これからは、受験勉強で経験してきたものとは異なる世界が待ち受けている。そのような出だしで話し始めれば良かったのではないかと思った。
話は変わり...
今、2018年3月14日に亡くなったスティーヴン・ホーキングの遺作『ビッグ・クエスチョン〈人類の難問〉に答えよう』を読んでいるのだが、ここで感じたことと重なった。人類の難問として「宇宙には人間のほかにも知的生命が存在するのか?」という問いが挙げられているのだが、博士がいつまでたってもこの結論を出してくれないのでイライラしてしまったのだ(笑)
だとすると、銀河系には多くの生物が見つかると予想するのはかまわないが、私たちが知的生命に出会う可能性は低そうだ。
もし、博士の遺作を楽しみにしている人がいたらネタバレで申し訳ないのだが、最後の最後にこれを出してくるので、私としては「いやいや、博士、最初にそれを言ってくれれば回りくどい(失礼)説明をもう少し楽しんで読めたのに!」と思ってしまったのだ。
今回の雑感
文章や話の組み立て方で、受け手側の印象がガラッと変わるかもしれない、ということを上野千鶴子とスティーヴン・ホーキングとから感じた次第。
本稿は頭書きに【 】付きで言いたいことを持ってきたのだが、これでまずは結論を持ってきたことになるだろうか!?