本と酒があれば、人生何とかやっていける

読んだ本の感想や気付きを中心に、雑感をつらつらと綴っていきます

〈本〉『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』

【インプットとアウトプットの大切さを実感した】

幻想を打ち砕く

ビックデータ、ディープラーニング、言葉としてはインプットされていても、その意味を問われるとちんぷんかんぷんだ。何だか凄いことができるのだろうという「分かっていない人」特有の思考停止状態の自分に、まずはズドンと釘をぶち込んでくれた。

 

 

ディープラーニングは、「大量のデータを与えればAI自身が自律的に学習して人間にもわからないような真の答を出してくれる仕組みのことだ」と誤解されていることが多いようですが、そんな夢のようなシステムではありません。

 

AIの可能性と限界

AIと言えば、必ずついて回るのが「仕事が奪われる」ということ。この手の話になると良く引用されるオックスフォード大学の研究チームが予測した「10年から20年後に残る仕事、なくなる仕事」が本書でも引き合いに出されている。

 

ただし、このことを最初に提示したのは私である、そう著者の新井紀子氏はぶち込んでくる。

 

実は、この予測を最初に世に出したのは、オックスフォードのチームではありません。MITの「機械との競争」でもありません。私です。2010年に出版した『コンピュータが仕事を奪う』(日本経済新聞出版社)でそう予測したのです。ところが、日本人は真に受けませんでした。

 

このあたりの危機感が本書の随所に現れている。「東ロボくん」と名付けた人工知能で東大合格を目指すプロジェクトを立ち上げたのも、人工知能に東大合格をさせるためではなく、「近未来のAIの可能性と限界をすべての人がわかるような形で公開すること」だったという。そう、AIは凄いことばかりではないのだ。AIには可能性もあるし、限界もある。

 

怖いのはAIなのか

本書の主題は「AIは凄い!」ではない。その限界を理解している著者は、かのレイ・カーツワイルが提唱している「シンギュラリティ」を次のように評しており、これがまた何とも小気味良い。

 

私は、この言葉の賞味期限は長く見積もってもあと2年だろうと思っています。

 

ならば安心だ(AIに仕事が奪われることはない)ということではない。著者が言いたいことはそんなことではない。タイトルの後半に示されているように、問題は我々がAIに追い越されることではなく、我々自身が劣化してしまっていることなのだ。

 

本題である第3章「教科書が読めない」で、著者は自身が懸念していること、我々の読解力が劣化しているということを重ね重ね繰り返している。この章で数多くの問題(読解力を試す例題)を提示しているが、恥ずかしながら結構な確率で間違えてしまった。怖いのはAIというよりも、我々自身の読解力が劣化していることなのだ。

 

AIにできることは限られている

詳しくは本書を当たってもらいたいが、AIは「係り受け」と「照応」には対応できても、「同義文判定」は難しく、「推論」「イメージ判定」「具体例判定」は不可能だとされている。

 

AIは自ら新しいものを生み出さない。AIは過去のデータを分析して判断する、つまり「過去の判断」を踏襲することしかできない。読解力に乏しいAIを過剰に怖れることはない。憂慮すべきは我々の読解力が劣化していることなのだ。

 

この読解力こそ、AIが最も苦手とする分野であるにも拘らず、その読解力を身に付けることができていない。このことを著者は嘆いているし、危機感を感じている。本書から感じられるのは、ここを何とかしなければという強い意思だ。著者の熱いが感じられるので、是非読んでみて欲しい。

 

本書の雑感

自身の研究に裏打ちされた鋭い指摘、レイ・カーツワイルの進言に対して賞味期限はあと2年だと言い切る威勢の良さ、後味の良い読書になった。

 

日本の教育が育てているのは、今もって、AIによって代替される能力です。

 

本を読む(インプット)。そしてこのような形で自身の感想を綴る(アウトプット)。これらの大切さを実感することになった。