本と酒があれば、人生何とかやっていける

読んだ本の感想や気付きを中心に、雑感をつらつらと綴っていきます

〈本〉『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』

女子は楽しめるのだろうか?

しばらく積ん読されていて本棚の肥やしになりかけていた本を、肥やしになってしまう前に引っ張り出してみた。疲れた脳味噌でも読めそうなので、まさに脳味噌がぐでぐでに疲れている時に読んでみた。いやはや、先週は忙しかった。脳味噌ぐでぐで状態でも読める本は常備しておかなければいかんな。

 

 

タイトルになっている「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」から始まるエッセイだ。貴様いつまで女子でいるつもりだ論議を延々と続けるものだとばかり思っていたので、まずそこで期待値との段差があった。はっきり言って面白くなかった(爆)女子の面々はこの本を読んで楽しめるのだろうか?

 

期待値との落差が大きかった...

時たま面白い言い回しが出てくるものの、私からすれば中途半端だ。アルテイシアの『もろだしガールズトーク』のように、ガッ!とハンドルを切ったぶっ飛び感を期待していただけに、なおさら期待値との落差を感じたのかもしれない。アルテイシアの本は笑えるエロ話だけでは終わるものではないので、興味がある人は是非読んでみて欲しい。

 

 

ひとつのエッセイに救われた

面白くなかった、つまらなかったのだが、ひとつだけぐっと引き込まれるエッセイがあった。このエッセイを読むことができただけで収穫だった。まぁ、裏を返せばこのエッセイがなければ惨憺たる読後感が待ち受けていたことになったわけだが...

 

母を早くに亡くすということ

 

こう冠された少し長めのエッセイだ。二十四歳の時に母親を亡くした著者。その後の父親との難しい関係、亡くしてみて初めて理解できた母親が存在していた意義、母親が亡くなってから十六年経った今だからこそ至ることのできた父親との距離感。

 

何をか言わんや。はっきりと言おう。性別の差こそあれど、父親との関係に悩みを抱えているので共感してしまったのだ。

 

親は子に何を言っても良いのか?

モンスターペアレント」は学校や教師に対してその攻撃の矛先を向ける親たちを指す言葉だが、決してそれだけではないと思う。子にとってモンスターなペアレントはいる。そのように感じてしまう自分自身が悲しくなるものの、仕方がない。

 

親は子に対して何を言っても良いのか?子はそれを甘んじて我慢していなければいけないのか?虐待は決して肉体的なものばかりはない。言葉の暴力というものもある。子に対する過剰な要求は愛の鞭という一言で片付けられてしまうものなのだろうか。

 

ふたりが楽しく一緒にいられるのは、三時間まで。父は父である前に男であること。私は父が思う娘以上に、もう大人の女であること。私たちは少しずつ学んでいきました。お互いをなにも知らなかった父と娘は、知れば知るほど、とても似ていました。母が早く亡くならなければ、知りえないことばかりでした。

 

本書の雑感

歳を重ねれば大人にはなるものの、知恵がついたらついたで面倒くさい発想も出てくる、こんなことは言いたくはないものの「老害」という言葉もある。楽しく一緒にいられる時間が限られているのであれば、距離を置くしかないのだろう。親の気持ち子知らず。しかしながら、逆もまたしかりだ。親と子は特別な関係である。だからこそ、難しい側面も出てきてしまう。

 

本書を、いや「母を早くに亡くすということ」というエッセイを読まなければ、至らなかった考えがある。やはり、読書はいつも私に手を差し伸べてくれる。

デジタル疲れという感覚がわからない

【小売りは不滅なのである】

デジタルネイティブとは感覚が異なる?

先週金曜日の日本経済新聞朝刊で「デジタル疲れ、実店舗復活か」という記事が目に留まった。オワコンと揶揄されていたブックオフが、メルカリの台頭で押し上げられた中古市場で恩恵を受けているというものだ。商品発送などの個人間取引の手間を嫌い、ネットからリアルの店舗に回帰する消費者が増えているのだという。

 

メルカリなど触れたこともなく、個人間取引に疲弊したことなどない私にとっては「ふ〜ん」という内容だった。デジタル疲れねぇ。便利だからネットを使うのであって、何がなんでもネットでなければならないというわけではない。この辺りはデジタルネイティブとは感覚が異なるのだろうか。ちょうど読んでいた関連する面白い本を紹介したい。

 

小売再生 ―リアル店舗はメディアになる

小売再生 ―リアル店舗はメディアになる

 

 
感覚が理解できない

リアルの店舗はネットの世界に駆逐されていくのか?本書を読んで「その程度なのか」と思ったことがある。世界の小売市場におけるネット通販の割合だ。裏を取らずにそのまま引用してしまうが、2019年で7.4%を占め、2020年までにはアマゾン、アリババ、イーベイの三社で世界のネット通販市場の約40%を占める見通しなのだそうだ。

 

もっとネットの世界に駆逐されていると思っていたし、大アマゾンのシェアはもっと恐るべき数字になっていると思っていた。この数字を見ただけで、私などはリアルの店舗が駆逐される心配はないなと思ってしまうし、実際に現物や現場を見て買わないという感覚がそもそも理解できない(もちろん買う物による)。

 

出逢いを求める

私がネットで買うのは本くらいだろうか。ちなみに、中古の本を買うことには若干のためらいがある。実際、この値段でこの状態はないだろう!?と思ったのでクレームしたことがある(誠にもって丁寧な対応をしてくれたので安心したのだが)。

 

何事もそうであるが、ネットは指名買い、リアルの店舗では出逢いを求めるという感覚がある。オンラインの古書店であれば、欲しい本があり、それなりの値段だったら中古で買い求める場合があるし、リアルの店舗にいけば「お、この本が落ちてきたか」と手に入れる場合もある。


水着を忘れずに!?

紹介した『小売再生』の副題は「リアル店舗はメディアになる」だ。

 

あらゆる販売拠点や販売チャネルでの販売促進につながるような効果的な体験空間づくりこそ、店舗のゴールになる。

 

著者が指摘する限り、メディアとしての店舗を完全に具現化している小売業者は一つもないが、そこに向けて進化している企業はいくつかあるという。その中でも目を引いたのがパーチという会社だ。理想を追い求めた家を建てようとしていた創業者が、ホームセンターのあまりにもひどい対応に業を煮やして立ち上げた小売店だ。

 

キッチン、浴室、トイレ、アウトドア用品に特化しており、例えばプロのシェフと一緒に料理してみることができる。面白いと思ったのが「水着を忘れずに」という謳い文句。水着を持参すれば店舗でシャワーを浴びることもできる。だって、どうやって使うのかわからないのにシャワーヘッドを選びますか?と創業者はこともなげに話すという。

 

さらに進んで、店舗における物品の売買ではなく、店舗内で収集される「消費者データ」をメーカーに販売することを収益源としている会社も紹介されていた。本書の副題である「リアル店舗がメディアになる」を体現している好例で極めて興味深かった。

 

今回の雑感

この本は、テクノロジー分野の投資家として知られているマーク・アンドリーセンの「もう小売店は店をたたむしかないでしょう。みんなネットで買い物をすませるようになりますから」という予言から始まっている。マークの戯言などくそくらえだ。

 

著者が「これが小売の未来である。サングラスが必要なほど明るい未来ではないか。」という言葉の通り、リアルの店舗がなくなるなどということは考えられない。小売は不滅なのである。デジタルなどくそくらえだ、とは言わないものの、すべてをデジタルに置き換えるなどとても考えられない。

 

デジタル疲れという言葉にピンとこないおじさんは、小売の未来がお先真っ暗などとはまったく思わないのである。著者な指摘するように敵はアマゾンではなく常識なのだろう。それも、歪められた常識なのだろう。

〈本〉『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』

【外に出ずとも異文化に触れられる】

ダイヤモンド・オンライン

最近、ここで本を拾うことが多い。

 

 

毎朝届くメルマガの中で気になったものに目を通している。寄稿者の出版物に紐づいた記事が多いので、興味を持てば本も読んでみようかということになる。そんなわけで手にしてみたのがこの本だ。

 

日本の異国: 在日外国人の知られざる日常

日本の異国: 在日外国人の知られざる日常

 

 

ダイヤモンド・オンラインの記事はミャンマーに関する内容が中心だった。同僚がミャンマー案件に注力しているので気になって読んでみたというわけだ。すると(当然本書にも同じないことが書かれている)、はまっていたアレが出てきたではないか。そういえば通っていたぞ、五郎さんが。

 

というのも、かの大ヒットドラマ『孤独のグルメ』(テレビ東京系列)に登場したからだ。

 

 

この店は「リトル・ヤンゴン」と称される高田馬場にある。

 

豊かすぎる国際色

高田馬場以外にも、「リトル・マニラ」と呼ばれる竹ノ塚、「リトル・インディア」と呼ばれる西葛西、「ヤシオスタン」と呼ばれる埼玉県八潮市パキスタン人)、「ワラビスタン」と呼ばれる埼玉県蕨市クルド人)、そして一大コリアンタウンとして知られる新大久保など国際色が豊かなんてもんじゃあない。なお、なぜか埼玉県の地名にだけ接尾語として付いている「〜スタン」は、 ペルシア文化の影響が強い国で「〜の土地、場所」を意味するそうだ。

 

日本にいながら異文化に触れられる

しみじみと感じたのは、お金をかけて、国によっては危険な目にあってまで外国に行かずとも、日本にいながら異文化に触れることができるじゃあないかということだ。外の世界と接触することで、思い直したり見つめ直したりすることがある。例えば、宗教。

 

ラオスだけでなく、タイやカンボジアミャンマーなど東南アジアは敬虔な仏教国。宗教というよりも、生活習慣すべての基礎だ。

 

仏教に限らずだが、日本に住み着いである外国の人々にとって、寺院や教会は欠かせないものだろう。日本にいながら異文化と宗教との関係に触れることができるのは、誠にもって貴重な機会ではないだろうか。

 

日本や日本人を見つめ直すことも

もちろんそれだけではない。日本の中に留まっていては見えてこないことがある。そう、日本や日本人自身のことだ。本書でも在日外国人から指摘されていることがあり、なかなかに興味深い日本人像である。

 

でも日本人は、フリーダムなオーストラリア人に比べると、自分になにかを課す人々ですね。これをやらなくちゃいけない、その次はあれをしなくちゃ・・・・・・と。

 

お客さんの日本人のお年寄りには、子供がまったく会いに来てくれないという人もいます。

 

後者について、著者は「拝金主義がどれだけ横行しても、中国人が家族を、とりわけ親を大切にする気持ちは変わらず強い。」と若干微妙なコメント添えているが、耳が痛い人もいるのではないだろうか(まぁ、そもそも会いに行かない人は痛むような耳も持ち合わせてはいないのかもしれないが)。

 

自分にとっては当たり前だと感じていることが、外国の人々のフィルターを通すことで違ったものに見えてくる。ちょいと待てよ、と内省する機会を与えてくれる。

 

本書の雑感

私にとって意外だった地名もいくつか挙げられていた。ちょっとした交通費を出せば異文化に飛び込むことができるとは、何ともお得な話ではないか。本書を片手に異文化を求めてあちらこちら(といっても都内が大半)に足を向けてみるのも悪くない。そこで日本人である自らを再発見することがきっとあるのではないだろうか。

〈本〉『ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』

【何とも凹まされる読書だった】

腹に落ちなかった

気にはなっていたがスルーしていた一冊。とあるレビューを見て読んでみる気になった。読み方を元に戻したので(縦から横へ)がっちり読み込んだわけではないのだが、結論としては、私の腹には落ちてこなかった。当の気になるレビューが指摘していることも踏まえて考えてみたのだが、それでもやはり腹に落ちなかった。

 

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

 

 

バリバリの達成型組織

ティール組織とは何だろうか。組織モデルが発展してきた変遷を、色調も交えて次のように分類している。

 

無色→神秘的(マゼンタ)→衝動型(レッド)→順応型(アンバー)→達成型(オレンジ)→多元型(グリーン)→進化型(ティール)

 

今の時代における衝動型組織はギャングやマフィアで、順応型組織の模範となるのがカトリック教会、軍隊、公立学校システムだ。そして、達成型組織を具現化したのが現代のグローバル企業である。

 

多くの民間企業で圧倒的に見られるのが達成型組織で、その目的は競争に勝つこと、利益を獲得して成長を目指すことだとしている。比較的多くの人たちがこの達成型組織に身を置いているのではないだろうか。ちなみに、私が属する会社はバリバリの達成型組織だ。社員の誰も否定しないだろう。

 

では、多元型(グリーン)組織は何かというと、権限の委譲が行われ、価値観を重視する文化と心を揺さぶるような(!)存在目的があり、多数の利害関係者の視点を生かすような組織だという。例として挙げられているのは、サウスウエスト航空ベン&ジェリーズだ。私が属する会社は、条件に挙げられている三つが一つも当てはまらない。

 

多元型組織だけでも稀有な存在だが、この上位概念として据えられているのが進化型(ティール)組織だ。

 

私たちが自分自身のエゴから自らを切り離せるようになると、進化型への移行が起こる。

 

はっきり言って、気持ち悪い

腹には落ちなかったものの、本書で印象に残ったのが「恐れ」に関する記述だ。進化型組織への移行を妨げる大きな阻害要因は恐れであり、組織の意思決定を左右する大きな力は自己防衛本能であるとしている。衝動型、順応型、達成型、いずれの根底にあるのも恐れであり、競争相手に満ちあふれた世界で、血みどろの真っ赤な海を泳いでいる。

 

これには妙な納得感があった。なるほど、自分は恐れに突き動かされて毎日働いているのかと。何とも、まぁ、もの悲しく感じてしまった。でも、それが現実なのだ。

 

進化型の思考法で考えると、人間は完全に自分らしさを保ちながら、組織の存在目的の達成に向けて努力することができるという。組織の存在目的のおかげで使命感と精神が研ぎ澄まされ、自分という全存在に活力がみなぎる時に人間は最も生産的になり喜びに満ちあふれる。うーん、主張はわからなくもないのだが、まったく腹に落ちない。

 

こう問いかけよという。どの判断が組織の存在目的に最も寄与するか。この役割は組織の存在目的にどう寄与するか。この顧客や仕入先は組織の存在目的に寄与するか。はっきり言って、気持ち悪い。しかしながら同時に思った。自分のこの思考は、達成型組織にどっぷり浸かっている証なのだろうなと。

 

温かみを感じない

本書で好感が持てるのは、なかなかはっきりしていることだ。達成型から一足飛びに進化型への移行などあり得ないのだろうが、著者によると少数ながらそのような組織もある。ではその可能性を判断するものは何か。

 

CEOが乗り気でない場合、あなたの時間と精力を組織改革プロジェクトに注ぐことはそれほど意味がない(中略)そうなると、あなたができることはせいぜい、時間の経過とともに進化型組織を支持する人材が取締役になれるかどうかを見極めようとすることぐらいだろう。

 

はっきり言ってくれるじゃないか。わかりやすくて良いのだが、温かみを感じない。コンサルタントらしいと思った。この感じ方にははコンサルタントに対する私の偏見が含まれているのだろう。もちろんコンサルタントにも良し悪しがあり、もしかしたら著者は前者の方かもしれない。が、少なくとも温かみは感じなかった。

 

本書の雑感

この本を読むきっかけになったレビューでは次のようなことが書かれている。納得して向き合える経営指標を持って、成果を上げるために自らで管理する。組織の存在意義を最も理解している従業員自身が何をもって成果と捉えるかを自らで考え、一部の利害関係から降り注いでくる注文を払いのけ、そんな輩から自らの統率権を取り戻す。それが進化型組織の肝なのだと。

 

確かにその通り、だがしかし、言うは易し行うは難しだ。綺麗事を否定するつもりはないが、綺麗事にしか聞こえない。こう感じてしまう自分が何とも悲しくなる。今現在の立ち位置に対する思いや自らが抱いている諦めを再認識させられることになり、何とも凹まされる読書になった。

 

私の中でこの本はファンタジーに分類された(もちろんジョークだ)。ただし、自分にとってフィクションに感じられる世界を追体験しておくのは悪くない。達成型組織で働くよりは進化型組織で働く方が気持ち良いに決まっている。しかしながら、達成型組織でしか生きられない人間もいるんだろうなということも感じさせられた。凹まされながらもなかなか良い読書だった。やれやれだ。

〈本〉『OODA LOOP 次世代の最強組織に進化する意思決定スキル』

【再読必須の一冊】

解説が良い

まず始めに。この手の本はあとがきや解説から読むことを常としていたが、読書感が鈍っているせいか、つい真正面から取り組んでしまった。もちろん、悪くはない。が、より良いのはやはり「おしり読み(あとがきや解説から読む私の性癖)」だった。特に、この本に至ってはそうだ。

 

OODA LOOP(ウーダループ)

OODA LOOP(ウーダループ)

 

 

訳者の原田勉氏が、長い訳者解説を書いている。「いま、なぜOODAループなのか」というものだが、これが良い。加えて良いのが、各章の最後にも訳者が簡単なまとめをしてくれているところだ。こんなことを言うと著者ばかりか訳者にも叱られそうだが、訳者の解説を読むだけでも十分勉強になる。

 

PDCAはOODAループの一例に過ぎない

OODAは知らなくても、PDCAを知らないという人はいないだろう。Plan、Do、Check、Action(計画、実行、評価、改善)の頭文字をとってPDCAPDCAサイクルと言われる場合もある。さて、ではOODAループとは何だろうか?

 

OODAループの概念図に示されている学習ループは、「観察、情勢判断、意思決定、行動」である。この学習ループをいかにして実行していくのかは、企業によって異なる。PDCA(Plan Do Check Action)サイクルはその1つの具体例になる。

 

日本語版への序文から引用させてもらった。PDCAの上位概念と捉えても良いだろうか。本書に良く登場するトヨタ生産方式もOODAループの中に含めることができる。著者はそのように指摘している。

 

スピードが命

本書では「機動」という言葉が鍵になっている。機動とは辞書的な意味では、対象となるものを状況に応じて速やかに展開・運用することだ。訳者も補足しているが、マイケル・ポーターを始めとした戦略論は、スピードやそれを生み出す個々の行動はある程度切り捨てている。しかしながら、ビジネスの世界ではスピードがあれば、その他の要素における劣勢を跳ね返すことができる。

 

OODAループを高速で回す。この表現も繰り返されている。そう、ビジネスの世界においてはスピードが命なのだ。早ければ良いというものではないが、遅いよりは百万倍マシなのである。仕事の質はその中身とスピードとのかけ算だということを改めて認識した。そう、スピードが命なのだ。いくら中身が立派で精度が高いものでも、遅すぎては零点になってしまう。

 

OODAループとは何か?

Observe、Orient、Decide、Act(観察、情勢判断、意思決定、行動)の頭文字をとってOODA、OODAループ。スピードを重視するというだけあって、そもそも意思決定をすっ飛ばして行動に移る(つまり、OOA)のが理想というのも興味深い。

 

OOAを可能にするために求められるのが、暗黙的コミュニケーションというところがこれまた興味深い。いかにも日本人らしい以心伝心や阿吽の呼吸の世界が、スピードを軸にした競争戦略を実行するための不可欠な要素だというのだ。非常に興味深い。

 

この暗黙的コミュニケーションの土台となるものが、相互理解、皮膚感覚、リーダーシップ契約、焦点と方向性という四つの要素だ。これらの説明は省くが、第5章「OODAループを高速で回すための組織文化」で細かく説明されているので、興味がある方は是非本書を読んでみて欲しい。自分の身に落とし込んで考えさせられることもあった。

 

本書の雑感

まだざっと読んだみただけなのだが、示唆に富む内容だった。何よりもしてやられたと思ったのが、OODAループの実践であるトヨタ生産方式を、大野耐一の『トヨタ生産方式』を見直したい、読み直したいと思わされたことま。ダンボール箱の中に埋もれていた、久しく目を通していないこの本を引っ張り出すことになった。

 

トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして

トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして

 

 

なぜを五回繰り返すばかりが印象に残っているが、改めて読むといやはや参考にすべき箇所が多くて驚いた。私は製造業に勤める身ではないが、それでも参考になることが多い。製造業に身を置く人であれば目から鱗がボロボロと落ちてしまうことになるだろう。

 

再びこの大名著に触れさせてもらったのは大きな意味があった。トヨタ生産方式がOODAループの実践であるというのであれば、本書を舐めるように読み尽くす意味があろうというものだ。再読必須の一冊だった。

脱毛のお陰でふっ切れた

【読書は娯楽だ】

 

脱毛の歴史

脱毛の歴史

 

 

縦から横に戻してやった

図書館で目に飛び込んできた本だ。昔は(という程の時間軸ではなく、つい最近のことではあるのだが)この手の本を狩猟するために聖地・八重洲ブックセンターへ通っていたものだ。ここ最近は「普通の人」になってしまったのですっかり離れてしまっていたが、やはりかつての嗅覚の名残りはあるらしい。

 

マニアックですな。こういう本は大好き。三十分程で読み上げた。三十分!?そう、三十分。あれもしなければいけない、これもやらなければならない、そして、やはり本も読みたい。そうだよな、と開き直った。このような読み方は違うのではないかと改めていた考えを、またひっくり返してやった。横から縦を、再び、縦から横に戻してやった(詳しくは以下リンクをご参照)。

 

 

本は手を付けてなんぼ

いちいち舐めるように読んでいたら、読みたい本も読めやしない。最近、図書館で借りた本を消化しきれなくて読み切れず、いや多くは手を付けることなく返却することが増えてしまった。バカバカしい。だったら、斜め読みした方が百万倍マシではないか。目が覚めた。脱毛のお陰で目が覚めた。本は手を付けてなんぼではないか。

 

そう、借りたはいいものの、そのまま手付かずで返すにはあまりにも惜しいと思った。脱毛の歴史。いいじゃないか。この変態感溢れる装丁。黒に白字で脱毛の歴史、副題にはピンク字で「ムダ毛をめぐる社会・性・文化」ときた。本書を著した著者の動機と目的がいまいち不明瞭だが(書かれてはいるものの腹に落ちなかった)、私にとってはテーマに変態臭がするだけで十分に価値がある。

 

変態本でお楽しみのアレ

著者の本気度合いは「原注」の多さでも伝わってくる。なんと七十ページという紙幅を原注に割いている。著者が脱毛とがっぷり四つに組んだことが見て取れるではないか。結構えげつないながらも笑える図解などが引用されており、著者の、何というか執念みたいなものが感じられる。

 

まぁ、この手のいわゆる変態本でお楽しみなのはシモの話である。本書においては陰毛の話ということになる。アメリカの女性たちのシモの毛に対する見方や考え方、おまけに処理の仕方(爆)に関する変遷が楽しめる。性的な装備の中でも強力な武器であると考えられてきた陰毛が、たった一世代のうちに余計なものと考えられるようになった、というくだりは存分に楽しませてもらった。

 

唸らされた話もある

シモの話ではないのだが、ジレット(剃刀のジレット)と第一次世界大戦の話には唸らされた。様々な理由から、アメリカ人兵士がヨーロッパ戦線に参戦する頃には、兵士一人一人がひげ剃り道具を携帯することがアメリカ陸軍の規定に明記されたというのだ。剃刀は軍需産業だったのか、ジレットの興隆は戦争特需から始まったのかと唸らされた。変態的な角度から眺めると、歴史がぐっと身近で面白いものに見えてくる。

 

今回の雑感

とまぁ、斜め読みでも十分読書になり、そしてそれがストレス発散につながることがしっかりと確認できた。つい数ヶ月前にぶち上げた「横から縦」をあっさり覆し、何が悪い、文句があるかと「縦から横」に戻した。

 

ここのところ色々と不安定な状態が続いているので、改めて読書をしっかりと生活に取り入れて、適宜ガス抜きしていこうと感じた次第。欲張るな。一つの本から雑巾を絞るがごとくできるだけのものを吸い上げようとするな。読書は娯楽だ。そう自分に言い聞かせた読書になった。ありがとう、脱毛。脱毛のお陰でふっ切れた。

「普通の人」になってしまったという悩み

【悩むのではなく考えよう】

バーテンダーが黒服に...

スナック形式の読書会で幹事を務めていた。ここのところ読書会に参加できていない反省を込めて、過去形にしてみた。

 

我らが読書会はスナック形式。発起人であるママ、店(読書会)を切り盛りする頼りになるチーママ、黒服そしてバーテンダー。幹事4名がそのような設定になっている。ちなみに私はバーテンダー。これは単なる酒好きだからであり、酒を作るのが上手いからというわけではない。

 

諸事があり、黒服はしばらく姿を見せていない。元気にしているだろうかと時たま連絡していたが、めっきりそれもしなくなってしまった。そう、バーテンダーも黒服状態になってしまっているからだ。我らの店(読書会)は、ママとチーママの二人で支えてもらっている。

 

時折、悩まされている

変態。読書会でこのような呼び方をされていた。変態は、我らが読書会では誉め言葉である。変態的に本を読んでいたから、変態。ピークでは一日1.3冊くらいのペースで本を読んでいたし、週に17冊読んだこともある。もちろん上には上がいるものの、変態的な読書量であることに間違いはない。誉れある「変態」の称号を頂戴していた。にもかかわらず...

 

いまは古き良き思い出になってしまった。私の中の変態はなりを潜めて、いまや一週間に1冊読む程度の体たらく。私が唯一誇ることができた、他人と比べて負けることのないものが読書量だったにもかかわらず、いまはそれを手離してしまっている。そう、すっかり「普通の人」になってしまったのだ。時折このことに悩まされる。あぁ、これで良いのだろうかと。そんな時に読んだ本がこちら。

 

 

刺さる言葉

「本が好き」という自覚はあったのですが、自分が「変態的に本が好き」というほどの自覚はなかったのです。

 

はあちゅうよ、お前もか...(呼び捨て&お前扱いで大変失礼)本と変態が結びついていることに大きな喜びを感じてしまった。そして強く共感した。はあちゅうよ、お前もか... と(重ねて失礼)。

 

変に、常識に自分を合わせようとせず、ただ素直に、自分の好きなことを極めて、それが中心の生活を送りさえすれば、それが本当に生活の中心になります。

 

先に引用した「変態的に本が好き」や、上の引用が心に刺さったわけではない。この言葉に続く以下の指摘が、ぶすっと私の心に突き刺さったのだ。うーむ、悩ましい...

 

今、好きなことだけやって楽しく生きている人と、好きなことでは食べていけない人の違いは、好きなことをまっすぐ追いかけて、それがお金になるように努力する毎日と、好きなことを避けて、お金を稼ぐためだけに努力する毎日。そのどちらを選んだかだけの違いだと思います。

 

今回の雑感

ぐさっと刺さった。はあちゅうの言葉がぐさっと刺さった。今の自分は、仕事や「やるべきと思うこと」に追われて、変態的に好きだった読書を手離してしまい、変態から普通の人に変態してしまった。果たしてこれで良いのだろうかと、たまに思い悩む。やるべきと思うことに成果が出ていないこともあるだろう。まぁ、はあちゅう的に発想を変えて、悩むのではなく「考える」ようにしよう。

 

まず、やるか、やらないかを「考え」て、やると決めたらその方法を「考え」ます。「悩む」ではなく「考える」という単語を使うようにすれば、それだけでも、きっと人生は変わるはず。