「無駄」は役に立たないことなのか
【結局は、意識しているかしていないかの違いなのだ】
無駄は無駄なのか
無駄。辞書では「役に立たないこと」という説明が筆頭にくることが多い。無駄は役に立たないことなのか。果たして、無駄は無駄なのだろうか。
実際、無駄な無駄はあるだろう。本当に瑣末なことなので具体的には書かないが、私の場合、これは無駄だと思ったことは手離している。これをやることに意味はあるのだろうかと自問して、辞書的な意味で無駄と判断したものは手離すようにしている。
このようなことを考える時に頭の中をよぎるのは、果たして役に立つ無駄はあるのだろうか(辞書的な意味では矛盾している)、という疑問だ。
無駄は無駄なことばかりではない
私は、通勤時の駅まで歩くルートや、通い続けているペインクリニックへ行く道のりをその日の気分で変えている。つまり、毎回同じ道を歩かないようにしている。なぜなのか?何かの本で、普段の通勤経路を変えるだけで脳は活性化する、というものを読んだことがあるからだ。脳には絶えず刺激を与えていきたいと思っている。
わが家から駅までにしても、駅からペインクリニックまでの道のりにしても、ルートを変えることで新たな発見があったりする。今月通い詰めているペインクリニックの最寄駅は西川口なので、若干の遠回りも含めて経路を変えると刺激的な発見が多くて楽しめる。これは、朝の貴重な時間を瑣末なことに費やす無駄かもしれないが、決して役に立たないことではないと思っている。
無駄は無駄なことばかりではなく、無駄ではない無駄もある。そんな禅問答のような考えが、時たまぐるぐると頭の中を駆けまわる。こんな時に手を差し伸べてくれるのは、やはり本だ。そして、都合よくタイミングよく現れてくれるのも、また本だ。
何に手を打ったのか
"最後の秘境"とは言い得て妙で、上野にある東京藝術大学の変人感あふれる学生たちの生態を通して、電車で通える異境の実態を紹介する、というよりも暴いている一冊だ。この本を読むと、毎年九月中旬に行われるという東京藝大の学園祭「藝祭」に行ってみたくなる。是非とも最後の秘境を肌で感じたくなる。今年の秋は上野に行こうと思っている。早速、妻を誘っておいた。
さて、こちらの本がどのように手を差し伸べてくれたのか。この本を読んで「これだ!」と手を打ったのが、こちらのくだり。
ちゃんと役に立つものを作るのは、アートとは違ってきちゃいます。この世にまだないもの、それはだいたい無駄なものなんですけど、それを作るのがアートなんで
意味がある無駄はある
芸術のすべてに当てはまるかどうかは分からないが、このように解釈した。芸術家はそれぞれの対象に意味のようなものを見い出し、それをその対象に埋め込んでいく。そして、その意味のようなものを感じ取って受け止める鑑賞者がいる。無駄かもしれない、役に立たないかもしれないが、そこには何かしらの意味がある。
私たちの周りには無駄があふれている。ある仕事は無駄を消化していくような仕事だったりするし、目の前にある無駄を省くために奮闘している人たちもいる。無駄、無駄、無駄(ディオではない)。無駄の洪水で私たちは溺れそうになっている。だからこそ、壮大な無駄の結晶である(失礼)芸術に、人は触れたくなるのかもしれない。
役に立つ無駄はないかもしれないが、意味がある無駄はある。東京藝大の世界に触れて、そのように感じることができた。
今回の雑感
最短ルートで駅まで歩くのではなく、毎回道のりを変更する。若干、遠回りする。そんなことに何の意味があるのか。はたから見たら一見無駄に見えることに、こうすることで脳を活性化させているのだと、自分なりの意味を乗せていく。結局は、意識しているかしていないかの違いなのだ。
自分なりの意味が乗っている無駄なのか、それとも意味が乗っていない無駄なのか。そうやって、これからも無駄の取捨選択をしていこうと思った。